その8
   

 てなわけで、会社、辞めました。
 一般に「銀行員」というと高給取りに思われがちですが、実際に高給なのは支店長以上だけです。それ以下は十把ひとからげの兵隊で、標準以下の薄給です。ましてやわたしはいい条件で就職してない、最下層です。どれだけいい成績を出しても、一生、入行以来変わらない薄給でコキ使われます。
 男の営業たちにくらべ、待遇も、与えられる顧客網も、足も、ほぼゼロでした。そのハンデを乗り越えて、前期の決算、債券販売部門で、行内一位を取りました。
 もういいや。そう思いました。
 一位を取ったおかげで男どもには嫉妬され、デキるやつなんだからと上司にはノルマ増やされ、いいコトひとつもない上に、給料は据え置き。いえ、むしろ下がりました。顧客網から自分で作らねばならず、服も、足も、備品も、私費で持ち込みしてました。顧客が増えれば増えるだけ、私費の持ち出しも増え、収支結果は減収です。月収四万の月も少なくありませんでした。
 ならぬ堪忍、するが堪忍。
 そう思ってこの業界で、十年がんばってきました。ずっと全力疾走してました。こういうのを心の疲労骨折とでもいうのでしょうか。行内一位をきっかけに、ある日いきなり、心の糸が、切れました。

 ミミが、泣くんです。
 毎朝、毎朝。
 暴漢に殺されかけてる断末魔のように、出掛けてしまったわたしを求めて、悲痛な叫び声をあげるのです。
 ダンナがその声に耳をふさぎそこね、出社しそびれ、Uターンしてミミのもとへ戻ったこともありました。それでもミミは「あたしが欲しいのはアンタじゃないわ」の顔でダンナを無視して、胸に刺さる叫び声をあげ続けたそうです。

 ダヤはミミより大人なので、泣き叫びはしません。けれど賢いので、朝の出社時刻が近づくと、妙にすりすり寄ってきます。そして玄関のむこうへ消えるわたしを、この世の終わりを見送るような、涙こぼれそうな絶望の目で、いつまでも見つめ続けます。

 正直、会社のこの状況は、どこにでもある話と思います。意地悪さんも不条理くんも、集団生活にはつきものです。過去にも、これよりはるかにひどい状況、何度もありました。そしてそれに勝ってきたのですから、今回も、やる気さえあれば勝てたでしょう。だけど。
 勝ちたい、と思うのは、恋やお金や自尊心、傷ついても欲しい賞品があるからです。そこに砂上楼閣しかないのなら、戦う意味がありません。
 この会社、天使を泣かせてまで得る価値、ありますか?

 銀行生活最終日は、 一日の売上としては稀な盛況でした。
 餞別にと三千万の買い注文くれたお爺さんもいました。なけなしの小銭かき集めて会いにきてくれたお婆さんもいました。寂しくなるねと泣いてくれた小母さんのことも、一生、忘れません。みんなみんな、十年かけて築いたお客さまたち。わたしの宝物でした。
 いいお客、いい商品、いい友達に恵まれて、幸せな十年だったと思います。そして一番の得意分野の債券で取った、夢の行内一位でした。
 全力で走ってこれたから、悔いも未練もありません。
 みんなみんなに、ありがとうです。

 ふしぎなことに、辞めた日からいきなりダヤンが、甘えんぼになりました。
 これまでは、べったりとカンガルーの赤ちゃん状態でいたのはミミだけでした。ダヤンはキャットタワーのてっぺんで、クールにわたしたちを見下ろしてることが多かったです。それが急に、ミミと一緒に、膝から離れず甘えつづける子になりました。
 猫なりに、何かを感じてたのですね。何かを、ずっと我慢してたんですね。
 ミミ、ダヤン、もう泣かなくてもいいんだよ。

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