その11
   

 母猫ハナちゃん、ひそかにファンが多いようですね。
 今回は、ハナちゃんのお話です。
 じつはハナとは一度だけ、不思議な時間がありました。

 あれは、ハナが仔猫を管理人さんご夫妻に預け、うちにミミとダヤンがやってきた、すぐ後のことでした。
 きれいに伐採された生け垣の下に、ハナがいました。子育てという大きな仕事を一段落した、開放感の顔して、涼しげに風に吹かれてました。ごはんをねだる時の顔しか見たことがなかったので、新鮮な驚きがありました。
 しゃがみこんで、ハナに話しかけます。
「あんたの仔猫はうちにきたよ。ありがとね」
 ハナが私をふりかえります。「あら、いたの?」とでも言いたげな、心を開いた顔でした。
 それからハナが、生け垣からふわりと降りて、歩きだしました。
 ついていきたいけど迷惑かな? と躊躇してると、ハナがふりむき、誘ってきます。
「来たくないなら来なくてもいいけど?」
 そんな顔でした。
 有頂天になるのをグッとこらえて、しゃがんだまま、ついていきました。
 信じられないかもしれませんが、ハナが自分の散歩道を案内してくれているのです。バイクの陰、給水塔の中、ベンチの下。お気に入りの場所にくると寝転がって、気持ちよさげに伸びをします。私がついてきてるか確認しながら、雲の上を歩くみたいに、ふわふわと歩いていきます。
 最後に、一階の住民の庭に入っていきました。私有地なので、人間は入れません。ハナがふりかえり、なぜついてこないかと、ふしぎそうな顔で見てます。身を切られる思いで中断した、最初で最後の、ハナとのデートでした。

 大人猫の魅力はこれじゃないかと思います。
 生まれたときから一緒にいる猫とちがって、ハナの中には、人の知らない世界があります。ただ守るだけの相手じゃなくて、異種で対等の、相方です。ハナにしかない倫理や世界観があり、気が向いたときだけ、魅惑の世界を覗かせてもらえます。

 そして悲劇は起きました。
 ハナは仔猫を管理人ご夫妻に、あげたのじゃなく、預けただけのつもりでした。植木屋が去り、敷地内が静かになってから数日後の夜、管理人室へ戻ってきました。そして、仔猫を入れたはずのダンボールが空になっているのを、見ました。
 絶望の絶叫が、マンション中に響きました。
 最上階の我が家にも、はっきりと聞こえました。

 ハナは二度と、マンション敷地を離れませんでした。鬼子母神になって狂ったように、叫びながら一晩中、仔猫を探しつづけました。
 仔猫を返せば、まちがいなく轢かれて死にます。命を救うには他に方法がありませんでした。でも、ハナにはそんなこと、理解できません。
 愛する者を泣かせた罪は、私たちが一生背負っていきます。
 ハナが避妊手術をしたのは、それから数日後のことでした。

 写真はハナでなくダヤンです。
 ダヤンのほうが、わずか体長がありますが、ふたりは飼い主が錯覚するくらいに瓜二つです。

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