その12
   

 母猫ハナの避妊手術は、そりゃもう壮絶なものでした。
 ごはんは食べてくれるけど、ほぼ野良です。人間には触らせてくれません。抱っこだなんて、冗談じゃありません。
 ごはん食べにきたところを、管理人ご夫妻が捕獲しました。病院行って手術して、帰ってきました。麻酔が切れたとたんに、発狂しそうな絶叫と大暴れで、マンション建物が揺れました。

 管理人さんご夫妻は、私たち住民とちがって、雇われの身です。住民から苦情がきて、管理会社に猫のことがバレれば、クビです。居合道四段で空手五段の壮健な身とはいえ、60才近い体で解雇となれば、野垂れ死にもありえます。ハナを家に置いておけば絶叫が鳴りわたり、そのクビも間近です。
 それでも医者から、ハナをせめて五日は外に出さないよう言われました。管理人ご夫妻は、五日間、死ぬ思いで、クビの恐怖と戦いながら、ハナの絶叫に耐えました。
 まきぼうの、空手の師匠でもあります。
 うちからケージ類の物資援助は受けても、それ以上の弱音は吐きませんでした。

 管理人さんは、どんなときでも礼儀正しく、世界中のすべての命へ、愛を注いでおられる方です。自己の心身鍛練にのみ日々精進しておられる修行僧のようなお方です。
 ハナは、この方の視界に入ったお子です。
 彼に任せておけば何の心配もない。そう信じてられました。
 ハナ絶叫の五日間、何度も言いそうになりました。「うちにケージを移しませんか、そうすればクビの恐怖はなくなります」と。
 でも言えませんでした。
 大事な修行のお邪魔になる気がしたのです。

 五日間の修行を終え、ハナは管理人室から出てきました。
 痩せこけてシャーシャー威嚇しながらも、玄関で、みごとな跳躍して、視界から消えてゆきました。
 そして。
 夜になったらゴハンをもらいに、戻ってきました。
 人の愛が、ハナに通じていたのです。

 ハナが完全な家猫になるのに、それから二年かかりました。
 ゆっくりと徐々に、ハナは管理人室でなく管理人さんの居住スペースのほうへ顔を出すようになり、滞在時間が長くなり、歳月かけて、外に出ない子になっていきました。いつ伝染病にかかるか車に轢かれるか、いつも気が気じゃなかったです。でも、ハナの気が変わるのを、待ちました。

 ぶじに今日という日を迎えられたのは、運が良かったのだと思います。
 わたしは無宗教なので、神がいるのかどうかも知らないですが、ハナに関してだけは、神様に、ありがとうが言いたいです。

(注:野良猫は、捕獲して部屋に閉じこめ、数日から数週間、愛と忍耐でお世話すれば、甘えんぼの家猫になります。当時は知識がなかったので待ちの戦法にしましたが、どうか真似しないでください。あなたが野良を愛したときは、五日間の修行のあとは、どれだけ泣き叫んで暴れても、そのまま完全室内飼いにしてください。外へ出たがらなくなる日は、必ず、来ます)

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